この世の沙汰は嘘だらけ

今の自分をメモすることに加え、当時の自分を思い出したい。そんな場所。

ロープ

あなたは自身の表情を見た事があるか。

 

自分ではポーカーフェイスと思っていても、存外そうでもない。それをスマホが教えてくれる。

 

例えばトヨタのCMの、娘を見守る俳優の笑顔が胡散臭いと感じても、カメラ越しに見る自分の表情だって似たようなものだった。

その人類の進歩が良いのか悪いのかはわからない。

 

例えば自分の子供の頃の記憶を遡ってみる。両親の顔、表情までも鮮明に覚えている。

自分自身が表情を意識していなくとも、きっと君には鮮明な思い出として記憶に残っていくのだろう。

 

世間ではまた虐待や放置などで失った小さい命はあるのだろうが、願わくば君だけは何事もなく生きていてほしい。ここ数年、そんなことしか考えていない。

 

あれほど月並みな考え方を嫌っていた私が、結局月並みな考え方しか持たなくなってしまった。いよいよこの場所にメモをすることも無くなってきたということであろう。

 

ただ一つ意外なのは、モラトリアムを過ごしていた過去の自分には一切羨みがないという事。

歳を取れば若い頃の自分を羨ましくなる、遠いあの日に戻りたくなる、そんな予想は妄想だったのである。

 

それであれば、ここから人生を長く続けることも悪くないのかもしれない。

過去を振り向かず、今この瞬間を常に更新し続けられのであれば、人生というのも捨てたものではない。

 

それくらい君は偉大だ。

just a flick,just a holic

久しぶりに筆を取る。

経緯は以下

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1週間という期限の中で15年前に自分自身を巻き戻す必要性があり、もはや曖昧な記憶を頼りに当時に聞いていたmusicを聴き漁る。

その中で当たった新世紀の唄を聴いた瞬間、ここの存在を思い出してログインに至る。

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皮肉なことに、1年近く前に刻まれた最新の戯言もまた同じ曲を聴きながら書いていたようだ。

何かの運命か、もしくは私自身がまるで成長していないということか。

 

命を失って、命を授かって。

 

そんな(一般的には)一大イベントを通り過ぎても、結局は何も変われていないということなのか。

文章力こそ大人びていて、まるで成長しているかのような虚勢を張っているものの。

 

いつまでここにすがるのか。

死が近づく時には全てを消すつもりであったが、案外ここが遺書になる可能性も出てきている。

 

相も変わらず何を言いたいのか皆目検討つかない駄文ではあるが、ひとつだけ成長を感じていることがある。それは

 

 

 

フリック入力の習得により、文章を入力するスピードが数段上がっていることである。

さよなら旧世紀

自分はガラスのハートだ。

無神経で鈍感な奴ほどそんなことを言う。

安心しろ、お前のハートは防弾ガラスだよ。

 

そんな奴らは俺を指差して言う。

「鋼のメンタル」「強心臓」、と。

 

何もわかってない。

俺こそガラスのハートなのに、好き放題言い続けやがる。

もはやそのガラスは傷だらけを通り越して、バリバリに割れているのだ。さながら女子高生のiPhoneの画面。

 

ガラスのハートを気取っていた奴は未だにあの時の俺を理解出来ていないだろう。あるいは、俺と言う人間を全く理解出来て居なかったか。

それなのに、「あなたの全てを僕は知らない」と唄っていたのは俺だけだった。独り相撲とはこのことか。

全くと全ては全然違う。

 

ふとミュージックアプリのおすすめ再生を見る。なるほど、俺の趣味はバレバレだ。

AIの方が余程理解してくれるようだ。

 

いつか割れたガラスの心がバラバラになったら、拾ってください。

それは骨ではなく、僕の心です。

セカンドフライすら取ることが出来ない、小心者の心です。

ブログの時代

なんていうか、俺は今しあわせです。

 

 

 

 

 

 

この一文は、何も私の現状の感想を呟いたわけではない。過去に私の親友であるK氏がブログで書いた一文である。

まだSNSというものが今ほど普及していなかった時代にあった形態、ブログである。

 

酒に酔っていたのだろうか?

あるいは都会の空気にやられたか。

その一文を読んだ時の私が感じた不快感は、羨みか蔑みか嫉妬か。嫉妬であればそれは奴自身へのものなのか、それともそんな言葉を奴に言わせるほどの周囲の人間へのものか。

 

青春時代に数々の夜を語り明かしたが、今日までに奴の口からその言葉を聞いた記憶はない。

 

そして今、私は

ありがとう

ありがとう。もう何も書くことなんて思いつかないよ。

 

俺の時代は終わった。

 

次の世代へ。

 

幼少期に笑わせてくれたコメディアンも。

思春期の時に恋した女優も。

苦しい時に聞いていたバンドのギタリストも。

 

皆死んだ。

時代は変わるのだ。

 

人の親になった。

これからは子供の為に生きるのだ。

 

価値観も人生観も変わった。感性と呼んでいたものはもう残っていない。潮時だ。

他者に

最大の親不孝(と、一般的に言われているもの)を回避した私は、気付けば時間の使い方や物事の向き合い方、価値観までも変わってしまったようで。

 

過去を振り返るのに、iPhoneのアルバムを省みることは最適だ。便利な世の中になったものだ。

しかしそのアルバムの中の記憶を辿っていくと、何故私はあの時あのような行動をとったのか理解に苦しむのである。

 

成長か老化か、自立か保守か。

 

感情の衰退は未だ歯止めがきかず、自己が他者に変化していく感覚すら残る。

ここに戯言を記す頻度が減ってきていることも、証拠の一つとなるだろう。

 

長い深いモラトリアムは、完全に終わったということか。

涙を乾かしながら

OAOは普遍では無かったか。

一人のために描いた夢を誰かに使い回すのか。

 

ただ歌いたい歌を歌っていただけなのに、何故だかそれらは彼女のことを歌っているようだった。

 

9月3日の唄。

そして震災の唄さえも。

 

あの夏の暑い日に聞いた時は、正に自分の歌であるように聞こえたが、東京の恋人はandyに始まりリリーに終わったし、地元の父母は遠くへ行ってしまった。

九州のお客さんは担当が変わって優しく微笑んだ。境港には元々同胞など居ない。

 

誰かの支えになれば生きているつもりにでもなっていたのか?お前自身の生きる理由は?

母親が死んだら生きる理由がなくなると言ったあいつの潔さは、美しかった。

君のように美しくありたかったんだ。