この世の沙汰は嘘だらけ

今の自分をメモすることに加え、当時の自分を思い出したい。そんな場所。

狭間の世代

観光客もなんのその、その座席は敬老である我々が座る座席だ。外国人も遠方から来た人も子供も関係ない。我々敬老のために立っておれ。

 

半年振りに立ち寄った街は、また一つ若者ための施設が取り壊されていた。

そして代わりに、老人のための施設が建設されていた。

 

この国の崩壊は近い。

そんなこと、誰もがわかっている。どうしようもない現実から目を背けて生きているだけ。

避難区域で生活し続けている人々を揶揄することなと誰も出来ないのだ。

 

(もしも仮に)我々のような狭間の世代にも、安泰の老後が訪れたとして。

自分らが社会の不利益にしかならない存在であることは自覚出来ても、やはりどうしようもなくオメオメと生きていくしかないのだろうか。

親愛なる

高校時代の現国の先生は言いました。

 

自殺する人は、死にたいから自殺するのではない。生きたいから自殺するんです。

 

なるほど、当時は意味不明だったが

15年経った今となっても意味不明だ。

 

強い言葉は叩かれる世の中だが、本当に叩くべきは弱い心なのではないか。

30年生きてて本気で死にたいと思ったことは一度もないが、そういう心の強さが周りから異端に見えてしまうらしい。

 

ならいっそ、全てを蹴散らせ。

絆も繋がりも、個のチカラの前では無であることを己が証明しろ。

 

だから、お前はそれを見届けるまで生き続けろ。

公園を歩くこと

小学生の頃は、狭い敷地に飼い慣らされていたくせにして、まるで毎日が冒険のようだった。

そこらに落ちた木の枝を剣に見立てて、自分は勇者であることを疑わなかった。

たかだか半径数百メートルの世界は毎日が輝いていた。

 

現在。

行動範囲は数百倍に膨れ上がったはずなのに、毎日が飼い慣らされている気分だ。

冒険とはリスクを伴うもの。

剣とは他人を傷つけるもの。

勇者とは、空気の読めない変わり者。

そんな思想に支配されてしまった。

共に冒険した仲間たちはバラバラの人生を送っているらしい。ヒロイン役のあの子はもう母親だ。

 

公園を歩くことのように簡単だと思われていたことは、思っていたより難しい。

ここからは、不器用な男の冒険譚となるのだ。

君がいた街

メモ帳と銘打ちながらも、半分は妄想の垂れ流しだったのも今は昔。事実は小説より奇なり。

責任者に問いただす必要がある。

責任者はどこか。

 

遠い街に住む彼女は、笑う。

俺はまた、わけのわからないこと言ってる街に行くことが出来なかった。

フィフティーン

成功者となってしまった彼は言う。

『行きたい島を見つけたら、どうにかして辿り着くよう努力するだけ』

 

私とは順序が逆だな、と思った。

私は先に水面に漂う術を決めてしまう。そしてその術で行き着く島を探している日々だ。

 

なら今、流れつこうとしている島は?

そこに上がるには、全てを捨て身軽にする必要があるのだ。

何となく行き着いたその島に、骨を埋める覚悟はあるのか?その価値は?

 

予想外れの曇り空で、隠れてしまった月を眺めながら。その島からもまた、同じように月を眺めながている一つもがいる。

 

そんな短文、呟くだけで充分なのに。